もめぐ

楽しかったのは覚えてるんだけど、何が楽しかったか覚えてない。

思いやりの主語は「相手」

 

有難迷惑ってたちが悪い。

相手はこちらを喜ばせようと思っている。

逆も然り。

こちらから有難迷惑してしまった日には、

理由はわからないけど少しずつ人が離れていく。

  

例えば、親が子供を心配なあまり

たくさん連絡をする。

子供の日常を知り尽くそうとする。

 

でもそれは、心配している自分の気持ちを

落ち着かせたいからだ。

それは極端に言ってしまえば親のワガママ。

苦言をいわれると、

子供を愛している、心配している親の気持ちが

わからないのかと怒り狂ったりする。

愛情でさえも、行き過ぎた有難迷惑に

なってしまうことが多々ある。

いや、愛情だからこそ。

 

親から子供への愛情、

恋人への愛情、

友情、

自己犠牲の精神、

貧しい国の子供たちへのボランティア。

 

先進国が発展途上国に信号を贈呈して、

信号を守るルールも文化もない現場で

全く使われていない。

そんな場面をよく見る。


ほんとに相手は、
あなたの言葉や行動で喜んでいる?

 

 

「自分がされて嫌なことは相手にしない」

っていうのがあるけど、

それについても考えてみたい。

それなら自分がされてもいいことは

相手にもしていいのだろうか。

 

自分は誰かの成功話を聞くのは好きだから、

自分も相手に話したい。

けれど相手にとって

それはただの自慢話にしかならないこともある。

自分の背景を話す上でその話が不可欠であっても。

 

この言葉、小学生の私に向かって

母が初めて教訓じみたことを言った言葉だった。

「わぁ、これがいわゆる教訓ってやつ?

覚えとこう。」

と思ったから覚えている。

 

中学生以下のこどもに教育するには

分かりやすくていいと思う。

ここでいう「嫌なこと」は

殴るとか傷付けるとか物を盗るとかハブるとか

人間全員にとって嫌なこと、だ。

 

「自分がされて嫌なことは相手にしない。」

これは枕詞みたいなもので、

(まずはそれを心がけてみよう。

そして、相手にとって嫌なことをおしはかれる

大人になろうね。)

が本当の意味じゃなかろうか。 


悪いことさえしてなければ、
犯罪犯してなければ、
何でもやっていい…わけじゃないのだ。

 

最初の有難迷惑の話も、この話も、

相手は何が嬉しい/嫌か

ということを考えなくてはいけないよね。

自分が嬉しい/嫌なことじゃなくて。

本当に相手のことを思うなら、

「主語は相手」にしなければ。

 

 

 

 

 

 

キングコング西野さんのLetter Pot