失うものがあれば絶対得ているものがある
です。
近頃の若い人はスマホばかり見て、、
という老人は
顔の見えない他人にネット上で優しくされた経験や
顔の見えない他人と協同してモンスターを倒すゲームの楽しさは知らない。
そのかわり野山を駆け回ったり
アナログな機械の組み立てなんかの楽しさを知っている。
優しくて人と喧嘩しない人は
思いの丈をぶちまけあってぶつかって
泣きあってまた笑い合う経験はしない。
そのかわり穏やかな時間が人より長い。
若い人は、オバさんはは、あの人は、、、
何か失っているように見えて、何か得ている。
失っていることも、得ているものも、
本人にとって良いか悪いかはわからないけど
社会や時代の大きな流れで見れば
みーんな何かは得ているのだ。
やりたいことを、言ってみてる
んです、最近。
ありえませんでした、以前の私なら。
まあ、確かに、
聞いてた通り、
やりたい方向に人生が進みつつあるような
ないような
ま、まだ途中なんでね。
言ってみてるだけでも、変化です。
できなかったときの恥ずかしさ、
こわさ、未熟さを
晒してまわってるわけですから。
ああ、やっぱあの人クチだけねぇ、なんて
思われるの心底嫌です。
大風呂敷広げちゃってねぇ、ぷぷぷ、てね。
でも意外と人って自分のことに手一杯で
他人のことなんて気にしてないので
私が醜態晒したところで影響のある人なんて
いないだろうと。
わざわざ忙しい時間使ってまで私のこと考えて
卑下してくれるような人いるかしら?
そう思えば自分で自分の首しめてること
沢山あるので
ちょっと変わってみようかな、
やりたいこと言ってみようかな、と。
いい方に変わるのかどうかもわからないけど。
聞くところによると
やりたい方へ方へと人生が進むらしいんで
試してみましょう。
iphoneと暮らし
夜中の寝室でiphoneの充電が切れた途端、
世界が変わったみたいに感じた。
部屋の中がぐっと具体化して、
私は"今ここ"を生きてた。
肉肉しいというか、物質的というか、
えぐいほどリアルな世界。
・近所のあそこにこんな家があって
その裏手を曲がると日の差し込む路地に出て
駅までまっすぐ、ゆったり下り坂、、、
・家のキッチンのコンロ、
丸いスイッチをちょっとうえめに長押し、
パチパチパチと火花の音が三回したら
ゆっくりスイッチから力を抜くと点火する、、、
・リビングの引き出しは重くて
グッと力を込めてやっとあけると
ギーと低い音がなる、、、
みたいな、アリアリとした鮮明な記憶に
まみれている感覚。
ああ、そうか、
普段iphoneを持つだけで
世界中との繋がりを常にまとっているんだな。
そしてそれを前提に生活している。
目の前に見えている暮らし以外に、いつも
頭の片隅はどこか別のところと繋がってる感じ。
今生きてる三次元とは別次元のような
目に見えない壮大なネットワーク。
たまにはiphoneを切って、
知らない街をGoogleMapなしで歩いてみたり
欲しいものを一つ決めて探し回ったり
友人に手紙を書いたり
してみてもいいかも。
どちらかだけではバランスは良くない。
今ここを生きている感覚も、
別次元と繋がっている感覚も、
無意識のなかへ放り出さず、忘れずに。
<蛇足>
Dear Apple社のご担当社様
iphoneで「アイフォン」と打っても
「iphone」が候補に出てこないのは
いかがなものかと常々思っております。
うつくしいもの
学生のわたしが考えていたこと、
いまになって新鮮なので残しておきます。
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ただただそのものが美しいのか、
自分に美しいものを認識できる目が備わったのか、
その両方だと思うけど、
世の中には美しいものがとても多いなあと思う。
特に、ずーっとぼーっと同じ位置に座って眺める、
電車の窓から流れていく景色。
家が立ち並びアスファルトで覆われ、
人間に支配された沿線の土地に、
それでも力強く自分であり続けてる自然の力。
季節ごとに、桜並木や菜の花、新緑、紅葉、葉のない木々。
今日はツツジの花がたくさん。
それが、一瞬で通り過ぎてしまう。
スマートフォンの画面に夢中な人たちは
どれほどこの景色に気付いてるんだろう。
いままでどれほど綺麗な景色をとりこぼしてきただろう。
電車の進行方向の右左、
どちら側の席に座るかによっても景色は違うから、
どんな景色が見えるかは、けっこう賭けなのです。
もしかしたら、自分が背にした向こう側に
すごく綺麗な夕焼けがあるかもしれない。
窓越しにそれに気付いた時はすごく惜しい気分になる。
それから必死に周りの人に怪しまれない程度に
首をひねって夕焼けをみる。
乗っている人たちも、それぞれ違う人生を歩んで来た、
違った考えを持った人たち。
なんか不思議な感じがする。見知らぬ人同士が
同じ方向にむかうというただそれだけのために
近い距離で隣に座ったり向かい合って座る。
むず痒くなって、面白くなってくる。
むずむずした状態で、はっと景色をみて
柔らかい太陽の光が差し込んで車両の皆を包むと
まるでみんなで一緒に旅行して
一緒に素晴らしい経験ができたかのような気分。
きっと私の片思いだけど。
電車がすき。そこから見えるものは本当に美しいから。
ただの交通手段ではない。
電車から見える景色、だけじゃなく 他にもたくさん、
世の中に美しいものはある。
たとえば
動物たちの、飼い主に向ける目や表情。
子犬、子猫、赤ちゃんに向ける全ての動物の母性。
なかなか見えづらくなってしまった、 夜空に光る星と、形の変わる月。
朝起きてカーテンをあける瞬間。 などなど。
そして最近私が好きなのは天然石。
特にオパール。一つ一つ、全然ちがう。
覗き込むと、奥の方で虹色に輝くけど
そこには手が届かないような
宇宙をみている気分になる。
魅了されてる自分に気づく。
今日は電車も乗ったし
ツツジも見れて
オパールの指輪をはめてお出かけ。
心託せる友人に会いに。
黒い膿
学生のわたしが考えていたこと、
いまになって新鮮なので残しておきます。
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結局のところ、
自分の嫌いなものが分かってないのって
自分の好きなものも分かってないのと一緒。
ここ1年くらいのわたしの悩み。
無欲であること、
負の感情がないこと、
あまり感情を口、態度に出さないこと
が良いと思いすぎている。
それが理想であり
それが自分がなるべき、なれる人物像なんだと思いすぎてる。
その理想だけが先行して
実体はそんな人物像なんかに追いついてないから、
その齟齬が2,3ヶ月に一度黒い何者かになって現れ出る。
多分そいつが現れ出て、膿をださないと
精神的に終わるんだろうと思う。
黒い何者かは、私じゃない。
私とは全然ちがう人格の、ちがう誰かなんだ。
と思っていたから
私って二重人格なのだろうかと思ったりしたけど
そうじゃない。先輩にも言われた。
その黒い何者か、も含めて自分である。
でも認めたくない自分がいる。
嫌われるのは別にどうでもいいけど
軽蔑されたくないという変なプライドがある。
そしてその黒い何者かは全人類にとって
軽蔑されるべき存在だと思える。
自意識過剰なのかもしれないけど。
それでも好きなひとはいない。
やはり私は自分がかわいいだけの人間なのかもしれない。
また別の先輩に指摘されたように
社会で起きる事象や関係性に興味があるだけで
「誰が」「誰に」とか人間自体には興味が無いのでは?と。
嫌われるのは構わないのに軽蔑されたくないと思っているあたり
それが顕著だと思う。